日本人として恥ずかしくないように・・・

  • LINEで送る

チェンマイでカオソイ(=チェンマイ風カレーラーメン)屋さんを営むMさんお元気ですか? なかなかご挨拶にあがれず失礼しました。 バンコクの空からおはようございます。 朝から蒸し暑いです。 今日も、午前中デスクワーク。 午後も、やっぱりデスクワーク。 さて、11月3日付け当欄でご紹介した奈良県在住のSさん。 約40年前、バンコクでの駐在時代の思い出、バンコクの様子を描いてくださいました。 今の日本の方に、是非心得ていただきたい教訓も含まれています。 少し長いですが、ご一読ください。

谷田貝さん 遅くなりましたが、一昔前のバンコクにつきまして、私の限られた経験をもとに、 少し書かせて頂ます。とりあえず3トピックスをお送りします。更にもう少し書けると思います。 1)日本人として恥ずかしくないように。 東京オリンピックの翌年(昭和40年ー1965)より大阪万博の年(昭和45年ー1970) まで、バンコクに駐在しました。 当時の日本は外貨準備が確か10~20億ドル位で、景気が良くなると輸入が増え貿易収支が 赤字となり、引き締め政策が取られるといった状態で、厳しい外国為替管理が行われていました。 私は28歳でタイへ赴任しましたが、当時の給料は子供2人の手当てを入れて4万円位でした。 所がタイへの片道航空運賃が15万円位でしたから、個人で海外旅行をするのは高値の花も良い ところでした。 それでも当時タイには日本人が1万人は居たと聞きました。 占領軍の管理貿易が解除され、貿易再開された昭和28年より未だ10年ちょっとで、戦争で焼け 野原となり打ちのめされた日本より海外へ出て行った当時の日本人は”日本人として恥ずかしく ないように行動しよう”という気持ちを持っていたように思います。 私はタイでゴルフを始めましたが、プレイを終わってクラブハウスで帽子を机の上に置いてビール を飲もうとしていると、他社の方からその非礼を注意されたことがあります。又同時期にロンドン に赴任した連中は食事はテーブルクロスの掛ったレストランでしろと命令された、と聞きました。 (私もこれから15年してロンドンへ駐在しました時はそんなことは関係なくなっていました。) この様に、当時の日本人は戦争に負けたと言う劣等感の裏返しだったのかも知れませんが、日本人 として恥ずかしくないようにしようと謙虚だった様に思います。 あれから40年が経ち日本は経済大国となり、日本人は自信を付けました。しかし”金持ち”に なったからと言って謙虚さは失くしたくないものです。 当時のバンコクは車も少なく、牧歌的でした。今盛り場となっているタニヤは野原でした。 ニューペブリ路もがらんとした通りでした。(ベトナムの北爆がタイより行われるようになって、 休暇の米軍兵士が来るようになり、娯楽施設が林立するようになりました。) 一流ホテルでは、コロニアルスタイルと言うのでしょうか廊下がオープンエアーのエラワン、 今より規模が小さかったオリエンタル(ノルマンディーグリルは当時もありました。)。 出張者がよく利用したは、モンティエン、マノーラ。ドゥシットタニ、インペリアルもありました。 パタヤにはイタリア系のリゾートホテルが一軒だけありました。宿泊して朝海岸に出ると、 人っ子一人おらず、のどかなものでした。 2)最初の異文化体験ー外国人価格 タイで少し生活してみて、頭にきたのは、同じものを現地人より高くかわされることー外国人価格ー でした。 ある日本人の奥さんが、買い物に出すと女中がピンハネをするので、自分で買いに行ったところ女中 のピンハネ価格より未だ高い値段で買わされた、という冗談のような話を聞いた事があります。   タイで鍛えられたので、その後、東南アジアでは相手の言い値の3割くらいから値段交渉を 始めるようになりました。ただ最終段階になって、その金額差を円換算すると僅かな金額なので、 馬鹿らしくなってきて、折れてしまうのは日本人の悪い癖です。 その後、香港に行って、この外国人価格のルーツは広東人にあることを実感した。 邱永漢先生は”食は広州にあり”と言う本で、”日本人は原価に利益をのせて売る。中国人は売り手 と買い手の合意で価格を決める。”と喝破している。(即ち、中国人にとって価格は ”一物一価” ではなく、”交渉次第”ということになる。) 日本人は金持ちだ(実際はピーピーしてるのに)、と勝手に思われて、価格は交渉次第だと、 原価無視の値段を吹っかけられては、救いがないですね。 日本での価格は交渉次第の世界は、工業製品でない骨董品位のものだろうと思います。 ただ、最近行ってないので分かりませんが、一昔前までの大阪の丼池(繊維街)、 日本橋(電気屋街)では、ソロバン片手に”値段は交渉次第”の世界でした。 最終的に本件は余りカリカリせずに、”郷に入れば郷に従え”で割りきって行くしかないようです。 私は最近では、時間が掛かるのが難物ですが、一種の遊びとして東南アジアに行った時には、”値段 は交渉次第”の世界に浸っています。 3)住居 当時家族の呼び寄せは一年後でした。 家族が来るにあたり、家探しをしました。当時の現地給与は12 千バーツ位(1バーツは16~7円 でしたので、20万円位)でしたので、家賃は3千バーツ位しか出せません。 エアーコンのある家は4~5千バーツしましたので、エアーコンなしの家でした。最初の家は大家さん の住んでいた総チークの家でした。2階のベランダは2メートル位で屋根が付いていて、太陽が入ら ないように工夫されていると言うように、エアーコンは有りませんが結構すごし易い家でした。 (その後、もう一軒エアーコンなしの家に移り、最後は、給与も上がっていましたので、 エアーコン付きのフラットに入りました。) 今から考えると、エアーコンなしで、よくやったなと思います。 タイの家はサーバント・クオーター(女中の居住区)が別棟になっていて、台所も別棟にあるのがタイの お金持ちの家屋構造です。私の大家さんはそれほど金持ちでなかったのでしょう、私の借りた家は キッチンが母屋にありました。 英国人は”家は城”と言います。タイでも家は城で、私権は保護されています。当時私は麻雀が大好き でよくやりました。麻雀を終えて、夜遅く、というより朝早く、帰宅すべく友人の家を出ると、門前に 警官が立っていることがよくありました。麻雀はタイでは国禁の遊びでしたが、麻雀をしているのが 分かっていても、令状がなければ踏み込めないのだそうです。 当時は泥棒は私権の保護には関係しませんので、日常茶飯事でした。我が家の女中さんが、夜中にひと の気配で目がさめた。私が麻雀して帰ってきたのだと思って、外を窺うと見知らぬ男が玄関先に 立っていた、と翌朝報告してくれるといったことがよくありました。 そんなことで、タイの人達は自己防衛にピストルを持っています。 当時は、陸軍の佐官級の人の証明書があれば、簡単にピストルを持てました。 私は経理担当にて、現金の入った金庫をもっていましたので、会社出入りの船積業者より”ピストルを 持て”と言われたことがあります。試し撃ちをさせろ、と言って射撃練習場でスミス&ウエッソンと コルトのオートマチックを撃ったことがあります。我流でやったことでもあり、余りにも命中しない ので、購入はやめました。 当時は日本は未だ貧乏でしたので、このようにエアーコンなしでも疑問も持たずにがんばれたのだと 思います。  Sより

S様 このたびは長文のお便りありがとうございます。 当時の物価まで描いてくださりとても興味深いです。 特に、”日本人として恥ずかしくないように行動しよう”というくだりは今の日本人に 知ってもらいたいですね。 11月12日

  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*