お客様の声

タイのお父さんお元気ですか?

シニアの方のロングステイには直接関係ない話で恐縮です。 福祉関係の専門学校で勉強する若い女の子二人が、春休みを利用しバンコクのス ラムで活動するボランティア団体で約3週間の研修体験中です。 小生が普段お世話になっている団体なのですが、趣旨をお話し、受け入れを快諾 してくださいました。 一応、小生が滞在中の保護者役になっており、“娘”のHちゃんからこんなメー ルが届きました。 日本の若者も捨てたものじゃないですね。
(谷田貝)

タイのお父さん(笑)お元気ですか? あたしたちふたりは病気ひとつせず毎日タイの子どもたちと遊んだり移動図書館 にいったりと素敵な毎日を過ごさせていただいてます この場所でであう人たちはタイ人も日本人もみんな素敵な方たちばかりで私たち も毎日がんばろうって気になります タイ時間も残り半分・・・ホントあっという間ですが ここで一生懸命活動したいです 谷田貝さんもお仕事がんばってくださいね  でわまた
2004年3月11日

夏の暑い盛りでも、熱いお茶を飲みなさい

北海道で指圧に打ち込む先輩Tさんから久しぶりに健康ネタを送ってもらいました。 テーマは「身体は冷やすな」です。 やはりアーユルベーダの考え方も、Tさんのお話と同じで、室温より低い温度の 飲食物は摂るな、消化が免疫力を高める・・・などということです。 実は小生、その考え方に従って、基本的に冷たい水は飲みません。 家では、ペットボトルから室温の水を飲んでいます。 じゃあ、昨日のビールは何なんだと云われると返答に困るんですけど・・・。
(谷田貝)

こんにちわ、Tです。 また、健康ネタを一つ。 最近、「体を温めると病気が治る」と「40度の白湯が病気を治す」本を読んでます。 読んでて気がついたのですが、昨年11月の訪タイで体を壊した理由がです。 あまりに暑いので、朝の起き抜けの1杯から冷水を飲み、  1日に何回も飲んでいました。 1日にコップ10杯くらい飲んでいたでしょうか。 数日後、いつものように冷水を飲んだ直後、  なんともいいようのない胃の不快感に襲われたのです。 その後は食欲不振と下痢の連続です。 1日に何度も冷水を飲んで体、とくに消化器系を冷やしてしまい、  冷えの為に消化器系が機能しなくなってしまったのです。 太田胃散や正露丸を飲んでも症状が改善されませんでした。 冷えによる消化器系の機能低下と考えれば納得がいきます。 そして、食欲が無いのでオレンジジュースで栄養を取ろうとしました。 これがまた悪かった。 冷やしたオレンジジュースを飲んだのです。 体を冷やしたという自覚症状はありませんでした。 先の本によれば40度の白湯を飲んで腸を温めると  腸内細菌の善玉菌が増え、悪玉菌が減るのだそうです。 腸が健康になれば、免疫力が高まるといいます。 冷えた水で消化器系を弱め、冷えたジュースで追い討ちを掛けてしまったのです。 子供の頃、おばあちゃんの知恵を聞いた覚えがあります。  「夏の暑い盛りでも、熱いお茶を飲みなさい」 2004年3月10日

年金で長期滞在の天国、それはタイだぞー、なんて・・・

先日、バーンタオ仲間を訪ねる旅に参加してくださった神戸在住のIさんから お便りを頂戴しました。 一昨日放映されたテレビ番組についての感想です。 このような番組が制作中ということは風のたよりで聞いていましたが・・・。 見た訳ではないので、あまり云えませんけど、なんだか、タイのイメージが単一化、 パッケージ化されているような気がしますね。 それにしても、毎日高級レストランに行ってたら肝臓がホアグラになっちゃうし、 毎日ゴルフというのも飽きると思いますが・・・。
(谷田貝)

昨夜21時ゴールデンアワーに年金で長期滞在の天国、 それはタイだぞーーーなんて番組ミノモンタの司会で 50分もやってましたよ。主にチェンマイとホアヒンが 最高の天国だそうです、物価、住宅費も超安く安全で 医療も何もかも日本語で大丈夫、毎日高級レストラン やエステにダイビング、ゴルフが楽しめるそうです。 大手旅行会社の陰がちらちらしてましたが真剣に取り 組んでる谷田貝さん達に迷惑被らなければいいですが 少しばかり気になりました。 恐らく素晴らしい番組だったと感心している人々の方 大多数だとは思いますが…………. Iより 2004年3月9日

国際交流について-その②『エルトゥールル号の遭難 ~生命の光から~』

長年旅行業に携わり、現在は国際交流事業に打ち込むKさんから、お便りを 頂戴しました。 国際交流を考えるにあたり参考になるエピソードとして、明治23年に発生 したトルコ軍艦えるとぅーるる号の遭難にまつわる一連の話を教えてくださりました。 ご一読を・・・。
(谷田貝)

「エルトゥールル号の遭難 ~生命の光から~」 和歌山県の南端に大島がある。 その東には灯台がある。 明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。 今も断崖の上に立っている。  びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。  どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。 台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。 午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がし た。 灯台守(通信技手)は、はっきりとその爆発音を聞いた。 「何か大変なことが起こらなければいいが」 灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こ えなかった。 このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。 全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波 の力でどん どん近づいてくる。 あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には、 岩が にょきにょき出ている。  ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。 船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。 この 爆発音を灯台守が聞いたのだった。 乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。真っ 暗な 荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、 岩にた たきつけられた。 一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつ かった。 意識を失い、岩場に打ち上げられた。 「息子よ、起きなさい」 懐かしい母が耳元で囁いているようだった。 「お母さん」 という自分の声で意識がもどった。 真っ暗な中で、灯台の光が見えた。 「あそこに行けば、人がいるに違いない」 そう思うと、急に力が湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、ようや く灯 台にたどり着いたのだった。 灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔 から 血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯 台守は、 この人が海で遭難したことはすぐわかった。 「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」 と感嘆した。 「あなたのお国はどこですか」 「・・・・・・」 言葉が通じなかった。それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ 人で あること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、身振りで、多くの 乗組員が 海に投げ出されたことがわかった。 「この乗組員たちを救うには人手が要る」 傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。 「樫野の人たちに知らせよう」 灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。 人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。 灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求め て、みんな崖をよじ登ってきたのだった。 この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男 たちは、総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただ しい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。 村の男たちは泣いた。 遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。 「一人でも多く救ってあげたい」 しかし、大多数は動かなかった。 一人の男が叫ぶ。 「息があるぞ!」 だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。 村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。 自分の体温で彼ら を温めはじめた。 「死ぬな!」 「元気を出せ!」 「生きるんだ!」 村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。 船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエル トゥールル号である。 助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガ ス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。 サツマイモ やみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧し い生活だ。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。 このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれて 初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄 えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。 「もう食べさせてあげるものがない」 「どうしよう!」 一人の婦人が言う。 「にわとりが残っている」 「でも、これを食べてしまったら・・・・・」 「お天とうさまが、守ってくださるよ」 女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせ た。 こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たち は、遺体を引き上げて、丁重に葬った。 このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言 上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、 生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。 このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、ト ルコの遭難者家族に届けられた。 次のような後日物語がある。 イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセ インが、 「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」 と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。 日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あ わててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかっ た。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。 日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になってい た。 そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十五名 全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であっ た。 なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。 前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。 「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的 な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科 書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知ってい ます。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助け ようと、トルコ航空機が飛んだのです。」 文・のぶひろ としもり

国際交流について

長年旅行業に携わり、現在は国際交流事業に打ち込むKさんから、お便りを 頂戴しました。 先日来、投書いただいた美龍さんなどのご意見に引き続き、感慨深いものがあり とても参考になりました。。
(谷田貝)

谷田貝様 ご無沙汰しております。 今回の一連の話とインドネシアの同級生?の話は 大変興味深く読ませていただきました。
私は現在 国際理解 国際交流 相互理解という観点から 事業を推進している立場ですので、今回の事例は 日本の現状を表している好例として見ています。

IN と OUT それに EXCHANGE  このようにわけて 考えてみるととてもよくわかるのではないでしょうか。 INはインバウンドすなわち日本に来てもらうこと OUTは留学、海外旅行 EXCHANGE は国際交流と考えてください。

近代日本をこの3つのワードでくくってみます。 まず、幕末と明治維新と文明開化 江戸時代は INもOUTもご法度でした。 わずかに  一部 長崎の出島などで EXCHANGE が 行われていました。 わずかではありましたが 実に質の高いものでした。

朝鮮通信使などもそうです。 そして文明開化。 大量の雇われ外国人を 招聘し、(IN) 精鋭の学生、政府高官を留学させ(OUT) てきました。 しかしここには EXCHANGE はありませんでした。 明治末期から大正昭和と 徐々に 外交というEXCHANGE が 行われてきましたが、ごく一部の官の話であって 民はなかったかあるいは記録にはありませんでした。

外貨獲得の使命をもって旅行会社がスタートしました。 これはIN。 JTBの始まりはインバウンドです。 ちょっと無理を承知で1つの事件を交流として捉えてみます。 それは 明治23年 トルコ軍艦 えるとぅーるる号の遭難です。 別途掲載。こちらからどうぞ

遭難を交流と呼ぶのはむりがありますがその後の話を考えると とても立派な交流だったと思います。 これはEXCHANGE。 日清、日露、日中戦争、太平洋戦争等(最悪の交流)をへて 大東亜戦争後サンフランシスコ講和までは(日本は)世界の一員として 認められてない状態でした。

INもOUTもEXCHANGEのない。 戦後 日本は アメリカを中心に多くの留学(OUT)をだしました。 当時はVISAが非常に出づらい世の中の情勢であったこともあり、 外国に行きたい人は憧れであったことでしょう。 戦後復興はやはり 外貨獲得。そこで (IN)が伸びていきました。

昭和もやがて戦後から抜け出した頃海外渡航自由化の時代が 参りました。ここからは怒涛のOUT。 企業研修、企業視察の IN OUT(業務用渡航)が増え、また、 高校生の姉妹校交流 語学留学 などでEXCHANGEも 少しづつ伸びてきました。 

やがて、円高になって INが 伸びず 逆にOUTが 円高を背景に海外買物三昧ツアーや海外社員旅行、海外卒業旅 行がどんどん売れる時代になりました。その結果 IN対OUT が1:4。 そのギャップをうめるべく、YOKOSOJAPAN のキャンペーンなどで INを伸ばそうと 政府が一丸となってやってます。

しかし、そもそもIN、OUTを別々に捉えること事態が能率的でないと思うのです。 前置きが長くなりましたが、EXCHANGEは ある意味ルールとマナーが 必要であり、またEXCHANGEに係わることで磨かれていくのです。 前出のインドネシアの美龍さんの証言や谷田貝さんが対応した ご夫妻を含め、大きく言えばその年代の人々は国際マナーを学ぶ機会が なかったのではないでしょうか。

EXCHANGEを経験すれば異文化理解、相互理解の 仕方を学習?出来たかもしれません。 実はちょっと逆説的にいったのですが、団塊の世代の人々およびその第二世代の ワカモノは共通しています。あくまでも一般論として捕らえてください。 つまり、他人を押しのける教育、マスプロ教育 詰め込み教育の結果 一人ひとりを大切に思う心、他人を思いやる心、気持ちゆとりが育たなかったのでは ないでしょうか

3つ子の魂~はなかなか修正がききません。 でも人間は学習する能力があります。谷田貝さんのところはまさに 学習の場と捕らえ、安易に妥協せず、交流の基本となる異文化理解の 最前線の教室としてがんばってください。理解できない人は日本に帰りなさい! と言って下さい(笑)

まあ、ご商売ですからそうも行きませんでしょうが。 タイのカンチャナブリの生き直し学校を訪問してもらい、タイの現状と それでもがんばっている子供たちやそういう子供たちを支援しているボランティーア の活動をその人達に見せてあげては如何でしょうか? なんらかのインパクトを感じることだと思います。

それでだめなら 日本にも送り返さないでください(笑)日本も そういう人は困ります。(^^)!”

さて 結論をまだ申し上げてないのですがl、 INを考えることは大切です。それは インカム(日本としての収入)を増やすことと 日本を体験して好きになってもらうことで日本びいきをつくること。 OUTを考えることは大切です。世界の情勢を知ること。日本と比較することができる こと。 でも、それぞれがリンクしてないと真の力が発揮できないのです。

双方向 つまり EXCHANGEが果たす役割は 多大です。 1、サスティーナブルであること。 2、協力関係を構築できること(外交) 3、日本、日本人、自分、日本の歴史、日本の役割、日本と世界、地球 を考える きっかけとなることです。 3、はいわゆるアイデンティファイの構築とでもいいましょうか 今の(戦後の日本)日本人に一番欠けていて一番悩んでいることはまさに これなのではないでしょうか?

先ほどのご夫婦にしても現在の電車の車中で 化粧パタパタやってるOLや女子コーコーセーやおばちゃまも路上喫煙で他人に 迷惑かけてるわかものも酔っ払ってくだ巻いてる中年おじさんも、自分を見失ってい るのではないでしょうか。 日本は今、ラストサムライの大反響、歴史もののブーム、モー娘の着物バージョン、 ペリー来航から150年たった今、改めて日本、日本人、日本文化を考えるきっかけ となっています。

ラストサムライには泣けました。俺らが見失っていたものはこれだ!!と。 トルコの後日談 イランイラク戦争のとき、フセインは48時間以内にイラン空港閉鎖すると宣言。 各国は自国の民を救うべく特別機で脱出させたが日本人は救援機が間に合わない。 そこへトルコから救援機が飛んで期限ぎりぎり、邦人を全員 無事連れ出してくれた。しかも民間機です!!トルコだって自国民じゃないのに、 撃墜される危険があるのに、ましてや軍隊じゃなく民間人のパイロットやスッチーで すよ!!

でも彼らは日本人を救いたかったんです。それは そう、この前のお返しですって。 100年も前のことですよ。彼らはその恩をきちんと後世に伝える努力をしていまし た。 そう、小学校の教科書に載っているのです。小学生なら誰でも知っていることだそう です。 国際交流の意義というか成果というか、そんな小難しい言葉じゃなく、人間として 当たり前の行為ではないでしょうか。

今、我々ができること、それは 日本の教科書にトルコのイラン救出作戦を載せるこ と。 サッカーのワールドカップでトルコを応援すること。よく伸びるトルコアイスクリー ムを 食べること。そしてトルコへ送客すること。交流事業を企画することなど。 旅行業、交流事業に関わっている人々は多かれ少なかれこのような ことを考える機会、ポジションに恵まれていると思います。 我々こそがその役割を担っていると自負していいんじゃないでしょうか! 長くなりました。 この辺で

K

2004年3月8日