タイの人たちと協働できる“場”を・・・

連日、若者の話題で恐縮です。 先日、放映された深夜のテレビ番組で弊社のことが紹介されました。 (読売テレビ系。司会は清水ミチコ。『AR』という番組名。) http://www.ytv.co.jp/ar/index_set.html これを見た関西方面に住む若者・Yさんからお便りを頂戴しました。 仕事の内容に興味を持ち、履歴書まで送付してくださいました。 残念ながら、今の小生の会社の規模では一緒に働いていただくことは出来ず、お 断りすることになってしまいました。 昨日紹介した女の子達もそうですけど、折角こうした志を持っている日本の若者 達もたくさんいるのだから、こうした人たちがタイの人たちと協働できる“場” を作らなくてはいけないなあ、いつまでも一人舞台じゃいけないなあ、 と思った次第です。 折りしも昨日の夕刻には、毎月来タイし色々と経営的なアドバイスをくださる福 岡のOさんから、かなり率直な厳しいご意見を頂戴したところ。

曰く、 「開業してもう4年目。スローライフは良いけど経営はスローじゃ駄目だぞ。」 カメの歩みもいいけれど、そろそろ走り出さないといけない時かもしれません。
(谷田貝)
2004年3月13日

Sawadee klap。 どうもはじめまして、Yといいます。 先日テレビでBaantaoについて特集をしていたのを拝見しました。 タイで第2の生活を生き生きして過ごしている人達を見て、幸せそうだなぁ と思わされました。 そういった生活をシニアや障害を持つ方々に提供するという谷田貝さんも やりがいのある仕事をなされてると心を動かされました。 私はそういったお仕事のお手伝いができないかと思い履歴書を添付さして いただきました。 私は最近、長年生活していたロンドンから日本へ帰国してきました。タイに は去年4月に2週間ほどバンコク出身の友達に会うために行き、たくさんの やさしいタイの人達と出会い、満喫した休日を過ごしました。 バンコクだけでなく今度はもっと田舎の方にもいきたいなぁと思いながら、 これからはタイ語をマスターしようと考えてる今日この頃です。 まだまだ未熟な私ですがよろしくお願い致します。 Y

タイのお父さんお元気ですか?

シニアの方のロングステイには直接関係ない話で恐縮です。 福祉関係の専門学校で勉強する若い女の子二人が、春休みを利用しバンコクのス ラムで活動するボランティア団体で約3週間の研修体験中です。 小生が普段お世話になっている団体なのですが、趣旨をお話し、受け入れを快諾 してくださいました。 一応、小生が滞在中の保護者役になっており、“娘”のHちゃんからこんなメー ルが届きました。 日本の若者も捨てたものじゃないですね。
(谷田貝)

タイのお父さん(笑)お元気ですか? あたしたちふたりは病気ひとつせず毎日タイの子どもたちと遊んだり移動図書館 にいったりと素敵な毎日を過ごさせていただいてます この場所でであう人たちはタイ人も日本人もみんな素敵な方たちばかりで私たち も毎日がんばろうって気になります タイ時間も残り半分・・・ホントあっという間ですが ここで一生懸命活動したいです 谷田貝さんもお仕事がんばってくださいね  でわまた
2004年3月11日

夏の暑い盛りでも、熱いお茶を飲みなさい

北海道で指圧に打ち込む先輩Tさんから久しぶりに健康ネタを送ってもらいました。 テーマは「身体は冷やすな」です。 やはりアーユルベーダの考え方も、Tさんのお話と同じで、室温より低い温度の 飲食物は摂るな、消化が免疫力を高める・・・などということです。 実は小生、その考え方に従って、基本的に冷たい水は飲みません。 家では、ペットボトルから室温の水を飲んでいます。 じゃあ、昨日のビールは何なんだと云われると返答に困るんですけど・・・。
(谷田貝)

こんにちわ、Tです。 また、健康ネタを一つ。 最近、「体を温めると病気が治る」と「40度の白湯が病気を治す」本を読んでます。 読んでて気がついたのですが、昨年11月の訪タイで体を壊した理由がです。 あまりに暑いので、朝の起き抜けの1杯から冷水を飲み、  1日に何回も飲んでいました。 1日にコップ10杯くらい飲んでいたでしょうか。 数日後、いつものように冷水を飲んだ直後、  なんともいいようのない胃の不快感に襲われたのです。 その後は食欲不振と下痢の連続です。 1日に何度も冷水を飲んで体、とくに消化器系を冷やしてしまい、  冷えの為に消化器系が機能しなくなってしまったのです。 太田胃散や正露丸を飲んでも症状が改善されませんでした。 冷えによる消化器系の機能低下と考えれば納得がいきます。 そして、食欲が無いのでオレンジジュースで栄養を取ろうとしました。 これがまた悪かった。 冷やしたオレンジジュースを飲んだのです。 体を冷やしたという自覚症状はありませんでした。 先の本によれば40度の白湯を飲んで腸を温めると  腸内細菌の善玉菌が増え、悪玉菌が減るのだそうです。 腸が健康になれば、免疫力が高まるといいます。 冷えた水で消化器系を弱め、冷えたジュースで追い討ちを掛けてしまったのです。 子供の頃、おばあちゃんの知恵を聞いた覚えがあります。  「夏の暑い盛りでも、熱いお茶を飲みなさい」 2004年3月10日

年金で長期滞在の天国、それはタイだぞー、なんて・・・

先日、バーンタオ仲間を訪ねる旅に参加してくださった神戸在住のIさんから お便りを頂戴しました。 一昨日放映されたテレビ番組についての感想です。 このような番組が制作中ということは風のたよりで聞いていましたが・・・。 見た訳ではないので、あまり云えませんけど、なんだか、タイのイメージが単一化、 パッケージ化されているような気がしますね。 それにしても、毎日高級レストランに行ってたら肝臓がホアグラになっちゃうし、 毎日ゴルフというのも飽きると思いますが・・・。
(谷田貝)

昨夜21時ゴールデンアワーに年金で長期滞在の天国、 それはタイだぞーーーなんて番組ミノモンタの司会で 50分もやってましたよ。主にチェンマイとホアヒンが 最高の天国だそうです、物価、住宅費も超安く安全で 医療も何もかも日本語で大丈夫、毎日高級レストラン やエステにダイビング、ゴルフが楽しめるそうです。 大手旅行会社の陰がちらちらしてましたが真剣に取り 組んでる谷田貝さん達に迷惑被らなければいいですが 少しばかり気になりました。 恐らく素晴らしい番組だったと感心している人々の方 大多数だとは思いますが…………. Iより 2004年3月9日

国際交流について-その②『エルトゥールル号の遭難 ~生命の光から~』

長年旅行業に携わり、現在は国際交流事業に打ち込むKさんから、お便りを 頂戴しました。 国際交流を考えるにあたり参考になるエピソードとして、明治23年に発生 したトルコ軍艦えるとぅーるる号の遭難にまつわる一連の話を教えてくださりました。 ご一読を・・・。
(谷田貝)

「エルトゥールル号の遭難 ~生命の光から~」 和歌山県の南端に大島がある。 その東には灯台がある。 明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台。 今も断崖の上に立っている。  びゅわーんびゅわーん、猛烈な風が灯台を打つ。  どどどーんどどどーん、波が激しく断崖を打つ。 台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。 午後九時ごろ、どどかーんと、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がし た。 灯台守(通信技手)は、はっきりとその爆発音を聞いた。 「何か大変なことが起こらなければいいが」 灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こ えなかった。 このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。 全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波 の力でどん どん近づいてくる。 あぶない!灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には、 岩が にょきにょき出ている。  ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。 船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。 この 爆発音を灯台守が聞いたのだった。 乗組員は海に放り出され、波にさらわれた。またある者は自ら脱出した。真っ 暗な 荒れ狂う海。どうすることもできない。波に運ばれるままだった。そして、 岩にた たきつけられた。 一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつ かった。 意識を失い、岩場に打ち上げられた。 「息子よ、起きなさい」 懐かしい母が耳元で囁いているようだった。 「お母さん」 という自分の声で意識がもどった。 真っ暗な中で、灯台の光が見えた。 「あそこに行けば、人がいるに違いない」 そう思うと、急に力が湧いてきた。四十メートルほどの崖をよじ登り、ようや く灯 台にたどり着いたのだった。 灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔 から 血が流れ、全身は傷だらけ、ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯 台守は、 この人が海で遭難したことはすぐわかった。 「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」 と感嘆した。 「あなたのお国はどこですか」 「・・・・・・」 言葉が通じなかった。それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ 人で あること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、身振りで、多くの 乗組員が 海に投げ出されたことがわかった。 「この乗組員たちを救うには人手が要る」 傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。 「樫野の人たちに知らせよう」 灯台からいちばん近い、樫野の村に向かって駆けだした。電灯もない真っ暗な夜道。 人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の人たちに急を告げた。 灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員傷だらけであった。助けを求め て、みんな崖をよじ登ってきたのだった。 この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた男 たちは、総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただ しい船の破片と遺体が見えた。目をそむけたくなる光景であった。 村の男たちは泣いた。 遠い外国から来て、日本で死んでいく。男たちは胸が張り裂けそうになった。 「一人でも多く救ってあげたい」 しかし、大多数は動かなかった。 一人の男が叫ぶ。 「息があるぞ!」 だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。 村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こした。 自分の体温で彼ら を温めはじめた。 「死ぬな!」 「元気を出せ!」 「生きるんだ!」 村の男たちは、我を忘れて温めていた。次々に乗組員の意識がもどった。 船に乗っていた人は六百人余り。そして、助かった人は六十九名。この船の名はエル トゥールル号である。 助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガ ス、電話などはもちろんなかった。井戸もなく、水は雨水を利用した。 サツマイモ やみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町、串本で売ってお米に換える貧し い生活だ。ただ各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。 このような村落に、六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人たちは、生まれて 初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄 えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。 「もう食べさせてあげるものがない」 「どうしよう!」 一人の婦人が言う。 「にわとりが残っている」 「でも、これを食べてしまったら・・・・・」 「お天とうさまが、守ってくださるよ」 女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人に食べさせ た。 こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たち は、遺体を引き上げて、丁重に葬った。 このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇に言 上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、 生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。 このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、ト ルコの遭難者家族に届けられた。 次のような後日物語がある。 イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日の出来事である。イラクのサダム・フセ インが、 「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」 と、無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。 日本からは企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。その日本人たちは、あ わててテヘラン空港に向かった。しかし、どの飛行機も満席で乗ることができなかっ た。世界各国は自国の救援機を出して、救出していた。 日本政府は素早い決定ができなかった。空港にいた日本人はパニック状態になってい た。 そこに、二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。日本人二百十五名 全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットの一時間十五分前であっ た。 なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。 前・駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。 「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人がなしてくださった献身的 な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科 書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知ってい ます。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助け ようと、トルコ航空機が飛んだのです。」 文・のぶひろ としもり